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No.107 新型コロナウィルス感染症の低酸素血症:息切れを起こさない不思議さ


2020年9月10日

 身体を流れる血液中の酸素が高度に低下した状態は、低酸素血症、あるいはさらに進んだ状態は呼吸不全と呼ばれています。通常は、強い呼吸困難が起こり、それによって気づかれます。生命の危機的状況となるからです。ところが新型コロナウィルス感染症(COVID-19)では、強い低酸素血症があるのに呼吸困難が起こりにくく、重症化したときの発見が遅れることが問題となっています。つまり、本人も周囲も気づかないうちに重症化している、ということです。

 米国でそれを最初に指摘したのはメデイアでした(The Wall Street Journal、5月11日号)。科学雑誌、Scienceが、この状態を「幸せな低酸素症(happy hypoxia)」と呼び、これをメデイアが取り上げたのですっかり定着した言葉になりました。苦しくないのでhappyだという意味ですが、医療人の一人としては、とても笑い飛ばせない言葉です。低酸素症が強くなっても症状がでない状態は、医師や看護師にとっては終始、目が離せない状態が続くことになり、大変な緊張を強いられることになります。自宅で経過を見る場合でも、息切れが起こらないので悪化が気づきにくい。気づかないうちに手遅れになる、ということです。

COVID-19は急に悪化する、と言われ、指で酸素飽和度を測定するパルスオキシメーターは、売れすぎて品不足ということです。しかし、この論文はパルスオキシメーターによる判断が難しいことを指摘しています。

 COVID-19では、低酸素症が起こっているのに症状が乏しいのはなぜか。この論文は、主に機序に目を向けた論文です。この評論の執筆者は、Martin Tobin、呼吸生理学の研究者として著名です。

 最初に、酸素療法が必要となる「急性呼吸不全」とは何か、という問いには日本呼吸器学会のホームページに、次のように記載されています。(日本呼吸器学会:急性呼吸不全)これは、現在の「急性呼吸不全」の模範解答です。



Q.急性呼吸不全とはどのような状態を示すか?

 「呼吸では、空気中の酸素を血液に取り込み、体内で産生された二酸化炭素を血液から呼気に排出します。通常、動脈という体の各臓器に酸素と栄養を運ぶ血管の中にある血液には酸素分圧として100mmHg程度の酸素が存在します。酸素のほとんどは赤血球という細胞の中にあるヘモグロビンに結合しています。酸素分圧が60mmHg未満になると様々な組織や臓器に悪影響が生じるので、何らかの原因によって動脈血中の酸素分圧が60mmHg未満になる病態を呼吸不全と定義しています。呼吸不全のうち、比較的短い期間で急速に起こってきた場合を急性呼吸不全と呼びます。また、呼吸不全は、血液中の二酸化炭素分圧が正常か低下しているⅠ型呼吸不全と、増加しているⅡ型呼吸不全とに分けて考えます。二酸化炭素の排出は肺胞に出入りする空気の量(換気量)により決まるので、二酸化炭素分圧が体内に貯まっているⅡ型呼吸不全とは、様々な要因で換気量が十分でなくなっている状態と考えられます。




Q.幸せな低酸素症の具体例は?


・64歳、男性。COVID-19の診断はPCR検査で確定している。なんど尋ねても息切れは全くないと答えているが1分間に6Lという大量の酸素吸入を行いながら、なお高度の酸素不足の状態である(パルスオキシメーターで測定した酸素飽和度(SpO2)は68% (正常値:96-99)、動脈血の中の酸素分圧は41mmHg(正常値: 80-100), 二酸化酸素分圧41mmHg(正常値: 35-45)、酸素飽和度は75% (正常値: 93-98)。合併症は糖尿病、冠動脈疾患でバイパス手術後、さらに頸動脈閉塞に対する手術および腎移植後である。

・74歳、男性。COVID-19の診断はPCR検査で確定している。マスクで1分間に15Lの酸素吸入を行っているが酸素飽和度は62%、動脈血の酸素分圧は36mmHg, 二酸化炭素分圧は34mmHg, 酸素飽和度(SaO2)は69%。呼吸を止めて飲水しても呼吸困難なし。息切れが強い場合に観察される頸部の筋肉の盛り上がり現象もない。合併症はない。

・58歳、男性。COVID-19の診断はPCR検査で確定。ハイ・フロー・カニューラで酸素吸入を行っている最重症の低酸素症。酸素飽和度は76%、動脈血の酸素分圧は45mmHg, 二酸化炭素分圧は28mmHg, 酸素飽和度(SaO2)は83%。呼吸困難は全くなく、スマホで普通に話している。



Q.推定される問題点は何か?


・低酸素血症が起こると二酸化炭素分圧が呼吸を刺激して呼吸回数を増やそうとするがこの機能がうまく働かないのではないか?


・酸素不足の強さと呼吸困難を起こす機序がかみ合わないのではないか?


・そもそも、パルスオキシメーターで測定するSpO2 は、80%以下は不正確であてにならないのに信頼できない数字を頼りにしているのではないか?


・高度の低酸素状態に慣れてしまっている?


・低酸素血症の定義に問題があるのではないのか?



Q.息切れと呼吸のコントロールとは何か?


・看護では息切れをどのようにして観察しているか?

➡呼吸数が多い、脈拍数が多い、顔つきが苦しそうだ、などにより判断しているがCOVID-19では明らかにこれらの観察は間違いである。


・呼吸中枢は、二酸化炭素の変動に非常に敏感に反応し換気量を増加させるように働く。


・動脈血の二酸化炭素分圧(PaCO2)が10mmHg上昇すると数分間で耐えがたい苦しさとなる➡息切れを生じさせる役割の中では二酸化炭素の役割がもっとも大きい。


低酸素血症では頸動脈体に刺激シグナルが送られ➡さらにそのシグナルが延髄に送られる➡呼吸中枢にシグナルが届く➡横隔神経を介して横隔膜を活動させ換気量を増やす➡延髄に達した情報は同時に大脳に伝えられる➡呼吸困難、息切れとしての不快な症状として感知される。


・健常者ではPaCO2を正常に保ちながらPaO2が90mmHgより60㎎Hgまで低下しても換気量が増えることはないがこれ以下になると急に増加する(図1)。注意点は、60mmHg以下となっても息切れを感ずる人は半数に過ぎないということである。健常者であっても酸素不足=息切れ、ではないことに注意

出典:Tobin M. et al. Why COVID-19 silent hypoxemia is baffling to physicians.Am J Respir Crit Care Med Vol 202, Iss 3, pp 356–360, Aug 1, 2020


・酸素不足と息切れの関係はPaCO2の程度に非常に影響される。しかし、PaCO2が39mmHg(正常値: 35-45)を越えたときに初めて換気量が増加し、息切れを感ずる。


・高齢者、糖尿病では低酸素が起こっても換気量の増加がない。したがって、息切れを訴えることが少なくなる。高齢者、糖尿病ではCOVID-19が重症化しやすい。



Q.低酸素血症は生命の危険となるか?


・一般に医師はパルスオキシメーターの測定値で酸素飽和度が80%から85%に低下した場合には生命の危機状況と判断する。しかし、著者たちの実験では80%と90%の間に息切れの差異はなかった。デンバーの高山では65%で長期滞在したが息切れを訴えることはなかった。



Q.パルスオキシメーターの機器における問題点は?


・指先で測定する酸素飽和度SpO2は動脈血で測定するSaO2との誤差が±4%ある。


・パルスオキシメーターの測定値は80%以下では不正確であるといわれる。


・パルスオキシメーターによる測定値は、黒人では不正確である。黒人でCOVID-19の死亡率が高い。


・COVID-19ではパルスオキシメーターで測定した酸素レベルが高いので安心していたが悪化し、死亡したという報告がある。家庭でパルスオキシメーターで管理する場合には十分な注意を要する



Q.COVID-19ではなぜ低酸素血症が起こるのか?


・新型コロナウィルス感染では呼吸のコントロールをしている中枢機能が傷害を受けるのではないか?


・頸動脈体にウィルスが証明されたという報告がある。


・ACE2受容体は鼻粘膜にもある。COVID-19では2/3の患者で嗅覚障害が起こる。嗅覚神経を介して脳にウィルス感染が起こりやすくなるのではないか?


・感染で肺の細い血管に血栓が多発し、これが低酸素を起こすという説がある(Science 2020;368:455.)。

肺の小血管に血栓が多発したときにヒスタミンや、血管周囲にある受容体の刺激で息切れが強くなるという説がある。これが起らなければ息切れ症状を伴わない低酸素血症が起こる可能性がある。



Q.低酸素血症とは何か?


・英語の医学用語集では低酸素血症(hypoxemia)とは、「動脈血の中の酸素分圧が正常以下の場合」と説明されている。ここでいう正常値とはなにか?


・動脈血酸素分圧(PaO2)は年齢との間に逆比例の関係がある。例えば、80歳では健常者でもPaO2 66mmHgとなる。1990年代の低酸素血症の定義では、酸素分圧は低いがその時に吸う空気の中に含まれる酸素濃度が無視されていた。新しい考え方では、吸っている酸素濃度との比を重視する。人工呼吸器を装着した状態で100%酸素吸入を行ったときPaO2 が80mmHgだとすると、実際は低酸素血症あるのに、正常と間違って解釈される可能性がある。

➡結論的には、現在、低酸素血症の基準はあるが明確な定義はない現在、医師は酸素吸入を必要とするかどうか、というようなあいまいな定義で低酸素血症という言葉を使っているに過ぎない。


・鼻カニューラから酸素を1分間当たり2L吸入している場合、吸入している空気中の酸素濃度は24-35%の間である。したがって治療中では低酸素血症のリスクを避けるためには治療では酸素が足りているかどうか、を頻回にチェックし、適正に合わせていくことが必要である。

パルスオキシメーターで95%という表示があったとしても実際のPaO2は60-200mmHgの間にあることを知っておかねばならない。特に患者が高流量の酸素吸入を行っている場合には注意が必要である。

➡ COVID-19で生じている低酸素血症は、複雑な機序で起こっていること、また、簡単にパルスオキシメーターで読み取る値で判断してはならない。



 Tobinが指摘しているCOVID-19で見られる低酸素血症の問題点は、これまで積み上た考え方をすっかり崩してしまうかのようです。息切れがなぜ起こるのかという問いや、パルスオキシメーターの測定値をそのまま、信じこんで良いのか。これまでは医療界の常識と考え、疑問も感じてこなかったことを、新型コロナウィルス感染症は根底から崩してしまいそうです。アフター・コロナは科学の新たな進歩も刺激するような気がします。



参考論文:


1.Tobin M. et al. Why COVID-19 silent hypoxemia is baffling to physicians.Am J Respir Crit Care Med Vol 202, Iss 3, pp 356–360, Aug 1, 2020


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